100年ふくしま。

vol.083 菊屋 菊地敏春さん

2024/04/23
vol.083 菊屋 菊地敏春さん

100-FUKUSHIMA vol.083

菊屋 菊地敏春さん

何年たっても基本に忠実に

中島村の県道44号沿い、「焼きたて」ののぼりがはためくパンとケーキの菊屋。
菊屋を知る人に好きなメニューを尋ねると、あんパン、フルーツパフェ、なめらかプリンとさまざまな答えが返ってくる。
「たまたま車で通りかかって店を見つけたと来てくれたお客さんが、また何度も足を運んでくれる、それがうれしいです」
そう朗らかに話す店主の菊地敏春さんは、創業70年になる菊屋の二代目。初代であるお父様の商品をベースに、菊地さんも和菓子を作っていた経験から、自家製のあんを使ったパンを作っている。
「気温が高くなってきたので、来週ぐらいで『なめらかプリン』はおわりです。他のプリンとは違い、半熟に近いデリケートな商品なので、寒い時期にしか作れないのです」

菊屋_店内
菊屋のケーキ
菊屋のパン

初代のお父様は、中島村で仲間3人とパン屋を始め、その後独立、現在の場所で昭和29年に菊屋を創業した。
菊地さんがお菓子づくりの仕事を知ったのは、子どもの頃に食べた洋菓子店のクリスマスケーキだった。
「パンと和菓子を作っていた父を見て、自分も将来はこの仕事をするのだろうと思っていましたが、毎年クリスマスケーキを洋菓子店に頼んでおり、そのケーキがおいしくて、こんなふうにおいしいものを作って、自分もお客さんに出したいという気持ちが子ども心に残りました」
普段の生活でケーキがまだめずらしかった頃のことだ。
菊地さんは地元の高校を卒業すると、修行のため東京の菓子店でケーキと和菓子を学び、これからパン作りを学ぼうとしていた時、お父様が配達中に事故に遭い、急遽地元に戻ることになった。
「事故の後遺症で一年後に親父は亡くなり、急に店を継ぐことになったので、パン作りは仕事をしながら休みの日に、東京にある製粉会社の研究所に通って勉強しました」
菊地さんが修行を終え、店を始めることになった昭和50年代、その頃も菓子職人はまだまだ裏方の仕事だった。
「親父が残したものをそれ以上にしたいという気持ちがありました。息子はだめだったなと言われるのが嫌で、がんばれたのだと思います。今でもこの仕事は、基本が大切だと思っています」
菊地さんは、厳しいお菓子づくりの仕事を続けてこられた理由をそう話す。

菊屋外観

毎日パン2200個とごはん160kgをつくる

「朝3時に起きて、午後1時まで作業が続きます。それから、昼休みを挟んで、午後はケーキ作りと毎日分刻みのスケジュールで働いています」
菊屋では、中島村、泉崎村、矢吹町の学校給食のパンと米飯の製造を担っている。
取材前、菊地さんにお会いしようと、私たちは何度か店を訪ねていたが、工場で作業を終えた菊地さんは、その後組合の会合や配達へと忙しく、お話を伺えることになったのは学校が春休みになってからだった。
この日、私たちは、学校給食には組合に所属する店がパンとご飯の製造を行い、地域の学校に届けられているということを初めて知り驚いた。
「どこのパン屋もご飯を炊いているんですよ。うちではパンは2200個、ご飯は160kg。パンは私が作り、ご飯は90歳になる私の母と家内が担当して、朝はパートさんも入れて6名で作業しています」
福島県内の学校給食は、現在32軒の組合員の店で作られている。年々、給食数の減少と組合の高齢化が進んでいる。
「いつか、いつも食べていたものがいつものように食べられない日が来るかもしれません。これまで、地域ごとで学校給食のパンやご飯を作っていましたが、パンが作れない地域もあり、この先のことを考えると地域ごとに分けるのではなく、県内すべての給食を組合全体でカバーしていこうという流れになってきています。そのきっかけは数年前のコロナです。組合の中でコロナが発生し、工場を閉めなくてはならない状況の店があり、その間の給食を他の地域の店が応援としてカバーしていたことがありました」
現在菊屋では、毎日学校給食を作りながら、月曜日と火曜日が店のパンを作る日。食パンは月曜日だけ作り販売している。

菊屋 菊地敏春さん

菊屋のあんの味

「うちの味があるとしたら、親父の時からやっているあんパンでしょうか。親父も和菓子をやっていましたから、餡を練る機械がありました。私もあずき餡は自分で炊いてつくっています。白餡は練り方をうまくやらないと焦げやすくなりますが、昔に比べると、機械の進歩があることを年々感じています」
13年前の震災で、菊屋は7割の工場の機械の入替えを行った。
菊地さんは、これまで店を続けてきて、いちばん堪えたのは震災だったと振り返る。建物は残ったものの、工場の機械がずれたまま、これからどうしようかと眠れずにいた。その翌日、白河市で土砂崩れがあり、広域消防組合から食事がないためご飯を炊いて欲しいという連絡を受け、工場の機械がかろうじて動いたため、水とお米を用意してもらい、それから3日間、すぐに食べれるようにと炊き込みご飯などでおにぎりを作り続けた。
「その後、県からの要請で避難者のためにパンを作ってほしいと連絡がありました。材料がなかったので、郡山市の阿部製粉に事情を話したところ、材料をすべて用意してここまで持って行くと言ってくました。それも、私のところの他に白河地域の同業の仲間のところにも届けてくれ、それから必死で毎日何千個と納品した記憶があります。しばらくして、店のお客さんにパンを作ってくれないかと言われたことで、店のパンを作るようになりました。毎日11時の焼き上がりに合わせ、日に日に店の前にお客さんが並ぶようになりました。店にパンを出せば、すぐになくなることが続き、それが次第に私のやる気になっていきました」

朝の工場_01
朝の工場_02
朝の工場_03
菊屋のパンは中種法でつくられ劣化率がゆるやかで、翌日もやわらかく食べられる。

シュークリームとパフェ

店のパンは15種類ほど、ケーキは7、8種類と季節のものが並ぶ。
その中に「フルーツパフェ」というケーキがある。シュー生地の真ん中にたっぷりの生クリームを入れ、いちごを添えたクリームのおいしさが際立つ一品で、これを「パフェ」と呼ぶ理由を尋ねてみた。
「それは、私が修行していた東京の菓子店では、カスタードと生クリームが入ったものを『シュークリーム』、生クリームだけのものを『パフェ』として出していたからです。このケーキは非常にシンプルなものです。ケーキだけを作るならもっと手の込んだものも作れるのですが、パンもケーキも私ひとりで作っているので、うちでは時間がかかり、足の短いカスタードを作ることができないのです。それと、あんパンに似たような名前があるのは、『マロンあんパン』は栗のペーストと白餡を混ぜたもの、『栗あんパン』は餡に栗そのものが入っているもの、中身が異なるためです」
この数年、休みもなかなか時間がとれなかったという菊地さんは、体が続く限りは現役でいたい、そして、今年は友人たちと大好きなゴルフに出かけたいと話した。
「家内は右手、私も両手が腱鞘炎になっています。でもこれは、それだけこの仕事を続けてきたという自分の勲章だと思っています」

菊屋_菊地さんご夫妻
朝のパンづくりの合間に飲むガテマラのコーヒーがおいしく、ひと息つく時間だと話します。
修行先のお店で、当時学生だった奥様がアルバイトに来ていたことが、お二人が出会ったきっかけでした。

– – –
パンとケーキ 菊屋
福島県西白河郡中島村大字滑津字中島西11-6
0248-52-2262
7:00-19:00
土曜日
なし

2024.04.01 取材
文:yanai 写真:BUN

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