100-FUKUSHIMA vol.084
東北エスピー / ギャラリー菜根 山田浩さん
郡山のモンマルトル
「郡山市の菜根を『郡山のモンマルトル』にしたい、そんな大それたことを考えています。以前、フランスを旅した時にモンマルトルの広場で見た、似顔絵を描いて売る人や楽器を演奏する人たちが自由に楽しんでいる風景に感動して、これを郡山で実現できたらと思いました」
子どもの頃から絵を描くのが好きで、若い頃に画家を目指し、現在も出かける時には必ずスケッチブックを持ち歩いているという東北エスピー代表取締役兼ギャラリー菜根代表の山田浩さん。
住宅地にあるギャラリー菜根は、2020年の夏にオープンし、絵画の展示やカジュアルなライブ・コンサートが開催され、郡山市で屋外広告・看板設計製造を手がける東北エスピー株式会社の一部門として運営されています。
「郡山には美術や音楽に触れられる場所や絵や音楽を発表できる場が、まだまだ少ないと思います。そこで、もっと気軽に絵画や音楽を楽しめる場所をつくりたいと思いました」
この日、ギャラリーには、山田さんが描いた作品とご自身が買い求めた作品、作家の作品が並んでいました。
「安積疏水が郡山の発展に貢献したように、ここが小さな水脈になって芸術や文化の発展に貢献していくことを願って、ギャラリーの名前に『菜根』という地名を入れました」
山田さんは、作品や音楽について、とても楽しそうに生き生きと話します。
画家志望からの就職
学生時代に画家を目指していた山田さんは、東北エスピーに中途入社し、先代社長から会社を引き継ぎ、現在に至っています。
「子どもの頃から絵を描くことが好きで、まわりから上手だと褒められるのがうれしくて、画家になりたいと思うようになりました」
中学時代に油絵を始めた山田さんは、県内の美術展で入賞し、高校生の時に東京藝大進学を目指します。しかし、現役での合格はならず上京して美術研究所に通うことになりました。
「東京では中学生の時から画塾に入り、デッサンを学ぶ人たちがいるということを知らずに、私は藝大受験のための特設科がある立川の現代美術研究所に入りました。それから毎日、デッサンの練習と油絵を描き、家に帰ってからも描き続けていました。研究所には、全国から藝大を目指す人たちが集まっており、自分よりも上手い絵を描く人たちがいて、とてもびっくりし、自分は井の中の蛙だったと気づきました。ただ親に応援してもらって研究所に入ったので、がむしゃらに頑張り、もう一度受験をしましたが上手くいかず、次第に自分がどんな絵が描きたいのかもわからなくなってしまいました」
次の年も受験に挑戦しますが合格できず、郡山に戻り、高校時代の先生の紹介から画廊で働き始めます。
「画廊っていいところだなと思ったのはその頃です。小さくても、自分が描いた絵を飾って、それを好きな人が買ってくれたら楽しいだろうなと思いました」
同じ頃、知人の紹介で古物商の仕事を経験することになりました。ちり紙交換なら、絵を描く時間を確保して、好きな時間に働くことができると山田さんは一年ほど続けましたが、やがて古紙の価格が下がると、一般企業に就職することを考えざるを得なくなりました。その時、「あったかいチームワークが自慢です」という求人広告のコピーが目に留まり、現在の東北エスピー株式会社に入社することになりました。
ここで一生分の勇気を出そう
「まったくの素人でしたが、看板屋なら毎日絵が描けて楽しそうだと思い面接に行きました。その時私は生意気にも、生活のために就職をするが自分は画家だと思っていると話し、当時の社長に、でも今は絵で飯が食えないんだろ、絵は趣味でやればいいじゃないかと言われ、悔しかったことを今でも覚えています。それでも翌日に入社が決まってしまいました。バブルの初めで、とにかく仕事が多く人が足りない状況だったので、デザイン職や営業職で入社しても関係なく、工場や現場の作業をしなければなりませんでした」
当時の東北エスピーは、創業5年目の勢いのある会社でした。初代の社長が、東京の屋外広告・看板を制作、取付工事を行う東京エスピー株式会社から独立し、郡山市富久山町八山田に事務所と工場がありました。
東京の代理店から受ける仕事は、東北地方の生命保険会社や自動車ディーラーの店舗などそれらの看板制作と設置と多岐に渡り、人手がない時は山田さんも現場の作業を手伝い、その後は事務や営業も経験しました。
やがて工場が手狭になると、新しい社屋を現在の場所に移転。メインで行っていた看板の取付け工事から次第に、全国にプロモーションを展開する仕事の依頼も増えていきました。
創業から15年間、がむしゃらに働いてきた初代の社長が肝臓がんを患って54歳の若さで亡くなり、二代目の社長であった初代社長の奥様が病気を患ったことで、山田さんに声がかかりました。リーマンショックがあった頃のことです。
「私はそれ以前から、社長を受けてもらえないかと話をいただいていましたが、当時の経営状況や家族のことも考え、断っていました。けれどその考えが変わったのは、歳下の社員から社長の仕事を受けて欲しい、もしお金が足りないのなら自分も出しますと言われたことです。そこまで自分を信用して言ってくれる人がいるのなら、ここで一生分の勇気を出そうと思いました」
社長の仕事を引き継いで経営面での整理を行っていた、リーマンショックの一年後、大型の仕事が入るようになり、それを機に2009年9月に山田さんは社長に就任しました。
「今もお付き合いのある会社からの引き合いがあり、業績が安定しました。就任前から様々なことを覚悟していましたが、前社長が残してくれたお客さんに支えられ、大変な時期に社員たちも本当にがんばってくれたと思っています」
気軽に絵を楽しむモンマルトルの風景を郡山で
社長交代をした年、山田さんはお母様に勧められて急遽初めての個展を開催することになりました。
「母のつながりから、なかまち夢通りにあったイベントスペースで、個展をやってみたらどうかと勧められました。まだ会社の仕事が忙しかったので断っていたのですが、いい場所だからと連れられて会場を見に行った時には、すでに使用の申し込みがしてあり、開催が決まっていたのです」
突然決まってしまった初めての個展「第一回山田浩展」は、イベントスペースに携わる会社や東北エスピーの社員にも手伝ってもらい開催され、それが同時に社長就任のごあいさつの場にもなりました。そして、東北エスピーがギャラリー部門を始めるきっかけをつくったのもまた、お母様だったといいます。
「私は画材店で働いていた頃に、絵の即売会で手頃な価格でいいなと思うものを少しずつ買いためていました。そのことを知っていた母から、お前がいいと思って買った絵があるんなら、持っているだけでなく、いろんな人に見てもらった方がいい、使っていない自宅の庭にギャラリーをつくったらいいじゃないというアイデアでギャラリー菜根が始まりました」
準備は、2017年頃から少しずつ始まり、2020年の初めに看板業の研修で行ったヨーロッパの旅も大きな影響を与えました。
「大きな資材展が開催され、ドイツとフランスに行った際、一日だけ自由時間をもらって、ムーラン・ルージュやルーブル美術館に足を運びました。教科書で見ていた実物の作品を目の当たりにして、朝から感動してしまいました。最終日に参加者たちとモンマルトルを訪れた時、広場には似顔絵を描く画家や自分の作品を売る人たちがいて、その自由に楽しんでいる姿を見て、これを郡山で実現できたらいいなと思いました」
この旅で、山田さんは気軽に絵を楽しむ文化を郡山に広げたいと考えました。旅の記録は、勢いのある瑞々しいタッチでスケッチに残されています。写真よりも描いた方が、あとで鮮明に思い出すことができるのだといいます。
「郡山を『東北のシカゴ』から先人たちが50年かけて『東北のウィーン』に変えたように、自分は郡山を『パリ』に、そして菜根を『モンマルトル』にしようと考えるようになりました。そんな私の考えを社員たちは呆れつつも、おもしろいと言ってくれました」
ギャラリー菜根が完成したのは2020年の夏。2021年には二回目となる山田さんの個展が開催されました。
「ここから絵や音楽の楽しさを伝えたいですね。今、ギャラリー内でカフェを始める準備をしています。ひと休みしながら絵も眺められるので、自分でも絵を飾ってみよう、絵の贈り物をしてみようというきっかけになればいいなと思います。もちろん絵の取付けは私たちの得意分野ですから、気軽に声をかけていただきたいと思っています」
今年の夏オープン予定のカフェは、もっと身近で、気軽に絵や音楽を楽しむことができる場所になるはずです。
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東北エスピー株式会社
https://tohokusp.co.jp/
福島県郡山市富久山町福原字中田34-1
024-922-0076
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ギャラリー菜根
https://tohokusp.co.jp/pages/73/
福島県郡山市菜根3丁目31-15
024-953-3205
10:00-17:00
月曜日、祝祭日、第1・3日曜日
あり
2024.03.26 取材 文:yanai 写真:BUN