100年ふくしま。

vol.060 ピアノマン 佐藤紳平さん

2021/02/03
vol.060 ピアノマン 佐藤紳平さん

100-FUKUSHIMA Vol.060

ピアノマン 佐藤紳平さん

ピアノマン、佐藤紳平氏

数年前の夏の終わりにある絵本会に参加した。
観客はほぼ大人のその会、読み手の声に寄り添うようにピアノの音が重なる。
絵本の内容がプロジェクターの映像に取り込まれ、いくつかの短編映画を見ているような思いになる絵本会だ。
人の声とピアノの音が心にせまり胸が熱くなっていく。物語が生き生きと動き出していくのが見えるようだ。
やがて最後の物語が閉じられ、エンディングがゆっくりと流れた。
ピアノの弾き語りでビートルズの「イマジン」。その調べその声に聴き入り、密かに美しい横顔に見入る。
ピアニスト佐藤紳平氏。誰が名付けた「白髪(はくはつ)のピアノマン」。知る人ぞ知るジャズピアニストである。

vol.060 ピアノマン 佐藤紳平さん
vol.060 ピアノマン 佐藤紳平さん

みんなで楽しめる音楽を目指して

佐藤紳平さんは、「企画工房ひだまり」に所属し演奏活動を行っている。また、音楽教室「音楽空間MIKAGE」でミュージックディレクター及び講師として後進の指導をしている。
ライブ演奏や音源制作、ピアノレッスン等の音楽教室を通してみんなで楽しめる音楽を目指して日々、励んでいる。
「企画工房ひだまり」は、奥さまの小泉昭枝さんが代表を務め、ピアノマンを底辺から支える。
「彼女が居てくれるからこそ自分は音楽をすることができると思っている。実はスケジュールひとつでさえよく把握できていません。私はそういうことには向いていないのです」
企画力に富み、頼りになるマネージャーでもある昭枝さんは、明るく気配りのできるがんばり屋さん、笑顔がチャーミングな女性だ。

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ずっと音楽と一緒に。
仙台でエレクトーンデモンストレーターの仕事を

「小学3年生の頃から学校の管弦楽でホルンを演奏していました。同時に少年合唱隊にも入っていてずっと音楽と一緒に生きてきました。ホルンは高校生まで吹いていて、このままホルン奏者を目指そうかと思ったこともあります」
紳平さんが音楽をやるようになったのは、両親の薦めだったと話す。
「12歳の時から、ヤマハ音楽教室でエレクトーンとピアノを習いました。私は小さい頃から落ちつきが無かったので父と母は何かひとつのことをやらせたかったのでしょう。エレクトーンを弾くことはとても楽しかったです。高一の時にヤマハ音楽教室仙台支部でエレクトーンのレッスンを本格的に始めました」
ピアノでクラッシックの練習をするよりもエレクトーンでポップスを弾く方が自分に合っていたと話す。
高校卒業後、紳平さんはエレクトーンコンクールに出場して優勝を果たす。その体験は自信に繋がり大きな後押しとなる。やがて仙台のヤマハエレクトーンデモンストレーターとしてプロ演奏家としての仕事をスタートさせたのだった。
デモンストレーターとは、プロの演奏家として多くの人にエレクトーンを広げることが目的の仕事だ。
「その時代は、エレクトーンを弾くのは女性が多く男性が少なかった。特に東北地方にはいない。そのため男性の間に広げることが求められました」

vol.060 ピアノマン 佐藤紳平さん
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父親との約束、応援があればこそ。

「父親は、整体業を営んでいました。親として音楽で身を立てることへの懸念もあったろうし私は長男なので跡を継がせたいという願いもあったと思います。仙台で音楽をすることの条件として、柔道整復師の国家資格を取るという約束をしました」
仙台の専門学校で勉強をしながら演奏家としての活動を続け、国家資格も取得した紳平さんはやがて一人で演奏することへの限界を感じるようになっていく。考えた末に止めることを決意したと話す。
専門学校を卒業後にバンドを組み活動を始める。ドラムとギター、紳平さんはキーボードを担当、東京へ行くという選択肢もあった。
「4人のバンドでコンテストに出場し優勝した時に東京へ来ないかと話が出ました。けれどどうにも足が向かなかったのです」
紳平さんは柔道整復師として接骨院を継ぐために帰郷することを決めたのだった。
「その頃、家にはグランドピアノがありました。そのピアノは高三の時に父が買ってくれたもの。帰郷してそのピアノに向かい合うたびにずっと応援してくれていた父の胸の内を改めて思い知ったのです。ここで音楽も続けていこうと決心しました」

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再スタートはジャズピアニストとして

あなたが弾いているとすぐにわかる。
同じ曲でも誰が弾いても一緒ではない。
その演奏スタイルはあなただけのものだから、それを大事にしなさい。

昔、言われたあるジャズバーのマスターの言葉だ。
「オレのピアノ」そのものを届ける。
そのためには、自分よりもいい音楽を聴くことです。と言い切る。
「帰郷してからずっと、オレはジャズピアニストだ!と言っていた。けれど言うのをやめました。いつからかパートナーにピアノマンと呼ばれています」

vol.060 ピアノマン 佐藤紳平さん
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生演奏の動画ネット配信を。

「今も、音楽と診療の仕事を行っています。コロナ禍で現在は出来ないことですが、機能訓練士として介護施設などへ出向き、お年寄りの方と音楽の時間を過ごすもあります。歌はいいですよ。認知症の方も昔唄った歌は覚えているんですね。少しずつ唄えるようになっていきます。私が唄うより、みんなに唄わせるようにしています。いきいきとしてくる顔を見ていると自分のしてきた音楽がこういう場で生かされることを感じ、やっていて良かったと思います」
紳平さんは、昨年の春から生演奏の動画ネット配信に取り組んでいます。
「ライブとは違い、お客さまの反応はすぐには分かりません。けれど今まで会場に来ることができなかった方や遠くに住んでいる人たちにも届くことはとても嬉しい。何回も再生していただけることも意欲に繋がります」
紳平さんは、動画が残るネット配信をするにあたってはとても緊張し、今までにない練習を重ねたと頬を紅潮させて話してくれました。

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佐藤紳平
福島県郡山市出身。
12歳よりピアノ・エレクトーンを始める。
エレクトーンコンクールにて優勝し、その後エレクトーンデモストレーターとしてプロ演奏家としてのキャリアをスタート。
仙台放送・東日本放送の情報番組でレギュラー出演。ヤマハ・ソニーミュージック所属の新人アーティストの楽曲アレンジやサポート演奏を行う。
1990年ボーカリスト石井栄一氏とイーハトーブを結成、コロンビア系レーベルにてデビュー、CDシングル・アルバム発表。
ピアノを斎藤和夫氏、エレクトーンを奥山洋子、松田昌両氏に師事。
現在、JAZZピアニスト、多ジャンルのキーボディストとして活動。
音楽教室「音楽空間MIKAGE」にてミュージックディレクター及び講師として後進の指導にあたる。

企画工房ひだまり
郡山市安積荒井3丁目408 2F
https://hidamari-mi.com/
音楽教室(音楽空間MIKAGE)/ ピアノ・ジャズオルガン・三味線・ボーカル他
演奏 / イベント・パーティー・結婚式・施設行事・学校などの教育イベント他
音源製作 / 各種レコーディング・ラジオ・CMナレーション・各種作曲・作詞他
宅配音楽 / ご自宅に生演奏を宅配

2020.12.05取材
文:kame 撮影:BUN

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