100年ふくしま。

Vol.076 映画看板絵師 三瓶勝吉さん

Vol.076 映画看板絵師 三瓶勝吉さん

100-FUKUSHIMA Vol.076

映画看板絵師 三瓶勝吉さん

映画全盛期、スクリーンから学んだ新しい世界

「映画を観て、外国のまだ見たこともなかった文化や思想、ファッションについて学び、目や肌の色が違っても、人として自分と同じものがあるということに感動していました」
今年80歳になる三瓶勝吉さんは、全国でも数少ない映画看板絵師の一人だ。
2004年から2011年まで平田村で自身の作品と昭和文化を展示する「ミュージアム詩音眞シネマ」の運営を経て、現在は、ご自宅のアトリエで、映画音楽を聴きながら、制作に励んでいる。
「58歳の時に、直腸癌の告知を受け、自分の人生を振り返った時、今まで夢中で必死になっていた絵看板をもう一度、描きたいと思いました」

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アトリエには、映画公開当時の記録となる品々が展示されています。

昭和30年、郡山の看板絵師の仕事

三瓶さんは、映画『赤胴鈴之助』の映画看板に魅せられ、中学卒業後、郡山市内で唯一映画看板を手がけていた看板制作会社、第一工芸に入社した。
当時は、百貨店や商店などの店内看板、居酒屋の行燈看板などをメインに舞台装飾の仕事も経験した。
「看板の仕事をするようになり、最初に手がけた舞台セットは、郡山のみどり座というところに歌手の三波春夫が来た時。劇場の外には、『歌謡ショー』という文字だけでなく、歌手の顔を描いたりもしました。小さな劇団もあり、舞台の背景や、切り出しというベニヤに松を描いて、背景を作っていました。県内で映画の撮影があった時には、物語のために、撮影用の店の看板をを制作していました。こうした撮影用の制作は、昭和の最後の頃までありました」
三瓶さんは、当時の第一工芸の社長を今でも「親父さん」と呼ぶ。
「親父さんは東京から来た人で、普通の看板だけでは面白くないから、映画看板もやろうと郡山で始めました。映画看板を制作できる会社は、それまで郡山にはなく、絵が描けるスタッフが在籍していたこともあり、同業社からの依頼も多くありました」
郡山市内で6社しかなかった看板制作会社は、三瓶さんが入社した昭和30年代の全盛期には120社に増えた。
看板制作の会社では、だれもが絵を描けるわけではなかったので、絵を描いてほしいという依頼がある時は、それを受けたところが、その仕事を三瓶さんのいる会社に依頼するという流れがあった。
「映画看板は、当時映画館が宣伝部をおいて専属の制作スタッフが描いているところもありました。第一工芸は、宣伝部のない映画館の仕事が主でしたが、宣伝部でも人手が足りず、急な依頼が入るときには、親父さんは自分のような見習いを出向かせて、経験をさせてくれました。看板がないまま上映はできないことを互いによくわかっていたので、映画館同士、我々制作の人間も助け合ってやっていましたね」

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看板制作会社での名残で、今も食器をパレットがわりに。
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映画看板は、配給会社からのポスターとは異なり、遠くからも見えるサイズと映画の内容を絵師自身が拾い上げて描く構図が大切で、当時は一週間のペースで新作が公開されていたため、何より制作の早さが要求された。
「入社後すぐは、『仕事を習いに行っている状況』で、筆は持たせてもらえず、給料もありませんでした。一人前に仕事ができるようになるまでは、自分との戦いで、真夜中までひたすら練習を続ける日々でした。私より絵が上手くても、何年もものにならず、やめていく人が多い中、私は、子どもの頃からの『シネマばか』で、上手くなりたいという気持ちで描き続ることができました。初めて、映画看板を任され、映画館に掲げられ時は、ものすごくうれしかったです」
三瓶さんは、幼少の頃に父親を亡くし、母親には心配をかけたくない一心で修行に耐え続けたと振り返る。
「いつも誰もいない真夜中の仕事場で、先輩職人たちが描いたものを真似て描き続けていました。先輩たちは制作したものを人に見られるのを嫌がるため、いつも絵を裏返して置いていました。練習がおわると、私はまた元通りに先輩の絵を戻して、布団に入るという日々でした。そんな時、真夜中にお酒を飲んで帰ってきた親父さんにようやく『映画看板、やってみるか』と言われたのが、私が映画看板を描く始まりでした」
当時の映画館は、新作を公開する映画館を「一番館」と呼び、時間が経つごとに作品は「二番館」「三番館」で上映され、三瓶さんが最初に任された映画看板は、「三番館」「四番館」のものだった。
三瓶さんが、当時の写真を見せてくれた。映画館の前で、手がけた映画看板の横に立つ、まだ少年の、けれど誇らしげな三瓶さんがいた。
「映画館に自分の看板が掲げられた時は、ものすごくうれしかったです。本当に嬉しくて、これまで給料をもらえていなかったということは、その時にはもう頭にはありませんでしたね」
そう言って、三瓶さんはとても楽しげに笑った。
1975年頃の最盛期を経て一時は離れた映画看板だったが、その頃、めいいっぱい力を注いで楽しかったという記憶が、今の創作意欲につながっている。
「映画看板は、残念ながら時間とともにすぐに張り替えられていきます。自分は人より絵が下手な方で、物語の思い入れが強く、面白いと思って続けてこられた、ただそれだけです。今も映画音楽を聴くと、そのシーンが思い浮かび、今でもわくわくとした気持ちになります。それが現在のモチベーションにもなっています」

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映画を通じて、見つめてきたこと

これまで多くの娯楽映画を魅力的に描いてきた三瓶さんが、印象深い作品に挙げるのは、1959年に公開されたソビエト連邦の映画「誓いの休暇」。
戦場で手柄を上げた兵士が、その褒美に休暇をもらい、遠方の母親を訪ねるまでのお話。その道中には、町の人々との日常が描かれている。
「若い兵士が帰省する話で、ソ連にはめずらしい反戦の映画です。公開されたのは、世界で核兵器が作られていた頃でした。娯楽として一般に受けるものではありませんでしたが、強く訴えるものがあり、好きな作品でもあります。ここ最近のニュースから今のロシアの人たちにも、そうした日常があるのだと、古い映画から思うことがあります」
ドキュメンタリー映画で、世界の情勢を知り、そのどこにでも人々の暮らしがあることを感じて、映画看板を描き続けることは、映画を通じて、社会の動きを伝えることでもあったと振り返る。
「映画看板と当時の私たちの暮らしがわかるような、博物館を作るのが夢でした。多くの制作物を家族に残す負担を考え、今年で制作を終えようかと考えていましたが、今もまだ、上手くなりたい、あのシーンを描いてみたいという気持ちがあるので、今は流れに任せてみようかと思っています」

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映画音楽のレコードがかかるアトリエで、三瓶勝吉さん。
映画音楽の中では、ユーゴスラビアの映画『夕焼けの戦場』の『夕焼けのトランペット』が一番だと話されます。
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シネマアート アトリエミニ美術館
【予約オープン制】
福島県郡山市安積町日出山字一本松176-1
090-6458-7878
あり

2022.08.08 取材
文:yanai 写真:BUN


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